Subject   : エルサレム王国

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 エルサレム王国
 エルサレム王国は1099年に建国され、アルメニア公国(後に王国)を除く東地中海沿岸のキ リスト教諸国の宗主国となりましたが、欧州の援助を受けながら何とか沿岸部で延命する状態 であり、最後まで安定した国家になることはありませんでした。  その王国に最初に君臨したのはブーローニュ家でしたが、3代(国王としては2代)のボードゥ アン2世には王女しかなく、常に戦いのある王国は勇敢な騎士を必要としたため、フランスより アンジュー伯フルクを未来の女王メリザンドの夫として迎えました。

 1131年にボードゥアン2世が亡くなると、フルクは妻メリザンドと共に王位に就きアンジュー家 をエルサレム王家としました。

 このアンジュー家は夫妻の孫娘で数奇な運命を生きたイサベル1世が1205年に亡くなるまで 続くことになります。

 そのイサベル1世は、1190年に亡くなった異母姉シビル女王より王位を受け継いだものの、 シビル女王が祖母と違い国王に不適格な夫ギーを持ったことにより王国を危機に追いやった ことから(しかも、ギーは妻亡き後も王位を主張し、1192年にキプロス王位の代価を得てようや く正式に退位することになります。)、諸侯の要請により最初の夫オンフロワ・ド・トロンと離婚さ せられ、国王に相応しいとされたモンフェラ家のコンラート(シビル女王の最初の夫の弟)と結 婚させられます。

 その新しい夫がに1192年に暗殺されるや、身重の未亡人となったイサベルは直ちに再婚を 求められ、イングランド王リチャードの推挙により、その甥になるシャンパーニュ伯アンリと3度 目の結婚をすることになります。

 当初、アンリはイサベルが身重であること、何より豊かなシャンパーニュ伯領を放棄し、不安 定な名誉のみが偉大なエルサレム王位を得ることに魅力を感じなかったようですが、イサベル に会うや、その意見を変えることになります。

 当時の史書が伝えるところによるとイサベルは「真珠よりも白かった」と言われるほどの美し さだったそうで、年若いフランス貴族の青年はイサベルに魅了されたそうです。

 幸いなことに、そして未来を知るものには不幸なことにイサベルもアンリに好意を持ち、この 結婚は王国にとっても夫妻によっても良きものとなりました。

 このため、アンリが1197年にあまりにも若く事故死すると、イサベルの嘆きは哀れを誘わず にいられなかったとのことです。

 しかし、彼女は女王として新たな国王となる夫を得る義務がありました。

 そのため、イサベルは選ばれたリュジニャン家のアモーリ(シビル女王の再婚の夫であるギ ー王の兄)と4度目の結婚をすることになります。

 そして、この結婚がエルサレム王国の継承者として王国を守護できる夫を持つことを強いら れた美貌の女王の最後の結婚となりました。

 1205年に4番目の夫に先立たれた女王は、同年に波乱に満ちた生涯を終えたからです。

 こうしてイサベルは4人の夫も持つことになりましたが、それらの結婚は王国を守護するだけ でなく、5人の成人した子供たちをも与えました。

 コンラートとはエルサレム女王マリーを、アンリとはキプロス王妃でエルサレム摂政となるアリ ックスとエラール・ド・ブリエンヌと結婚したフィリッパを、アモーリとはアルメニア王妃シビルとア ンティオキア公妃メリザンドをです。

 このため、やがてイサベルの子孫がシリアにある全てのキリスト教諸国を治めることになる のです。

 しかし、イサベルや彼女の子孫の努力にも関わらずエルサレム王国は1291年には沿岸部の 最後の拠点アッカをも失い滅亡する運命にありました。

 ですが、王国そのものは滅亡するものの、その王位はキプロス王家と共にあり、1489年にキ プロス王国がベネチア共和国に併合されるまで存続することになります。

 また、称号としてはキプロス王国滅亡後も、その権利を主張する家系が名乗っていくことにな ります。 

 その家系は、キプロス王家と縁戚関係にあったサヴォイア家やコンラディンを処刑したルネ・ ダンジューの権利主張が絡み、現在では私が確認出来る範囲でも、血統を根拠にサヴォイア 家とヴィッテルスバハ家が、ルネ・ダンジューの権利主張によりハプスブルク家、スペイン王家 (現王家とカルリスタ王家に分裂)、両シチリア王家(2系統に分裂)の7家になっているようで す。


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